美しさを探して

美しい自然、美しい造形、美しい行為、美しい日本を探し求めて・・・

検査結果

甲状腺に良性の腫瘍が見つかって4ケ月後の検診を受けてきた。
血液検査も超音波検査でも問題がないと診断された。
ほっとした。自分では心配してないと思っていたがどこかで心配していたようだ。
まだ娑婆っ気があり元気でいたいのだ。
元気なうちに出来ることはしておこう。

選挙結果

衆議院の選挙結果が出ました。
3年前は民主の圧勝。
こんどは自民党の圧勝。勝たせ過ぎに思えます。でもこれが結果です。
まるでオセロゲームのようです。変わりすぎです。
得票率はこんなに差はありません。
小選挙区制度に疑問を感じます。
それよりも残念なのが最低の投票率です。
今は税金を払ってない人でも、女性でも選挙が出来ます。
先達はそのために大変な努力を払ってきました。
それを使わないのは何とももったいない。
義務化されて投票するのではなく、権利として投票するのです。
権利を放棄するなら、何も政治に望む権利もありません。
民主主義は衆愚政治になる面もありますがそれでも
民主主義の優位性は変わらないと思います。

芸人魂

偉大な芸人さんが亡くなってしまった。

先日、中村勘三郎さんが亡くなられました。
歌舞伎界で「修」「破」「離」を実践なされたお方だと思います。
これからもっとやりたいことがあったに違いありません。
あの若さで終止符を打つのは残念でしょうがなかったと察します。

もう一人好きな芸人さんがなくなりました。小沢昭一さんです。
昔、著書「小沢昭一的こころ」を読んだことがあります。
その中で芸人は河原乞食でありその精神を忘れてはいけないと言う意味合いのことを仰っていました。
今、タレントと名の付いた芸人さんたちは河原乞食という悲哀から滲み出る力強い包容力は消え、ただの猿回しの猿にしか見えなくなっています。
そんな見方をするのは私だけだろうか?

政党政治

政治の話題が続く
日本は1億3千万人の人口抱えている。
十人十色どころか、1億3千万の考え方がある。
その考えを束ね方向付けをするのが政治の役目なのでしょう。
束ね方、向付けが近しい政治家がパーティーを組み力を結集しその政策を実現しようとする。それが政党であるはずです。
ですが政党内の意見の対立いさかいで政党の意味をなしていない。
党で決めたことに、考えが違っていても党員は従うのは当然です。
従わな事がまかり通ってしまうのもおかしい。
党議に反した党員が党を締め出されるのも又、おかしい。
対立して出て行った者がまた党を設立する。
極論すれば政治家の数だけ党ができてしまう。
対立混乱するカラーの決まらぬ党など選びようがないし選びたくない。
政党の存続理由がなくなってきている。
政党など無くし、国会議員は全員が無所属で政策ごとに力を結集していけばいいのではと思えてしまう。

為すべきことの第一歩

自分に何ができるか考えてみよう。
とりあえず、為すべきことの第一歩は意見の発表だということにしよう。

衆議院議員選挙の真っ最中。
国会議員の仕事は国家全体の事柄、国家の方向付け、外交、防衛、貿易、教育と大きな枠の検討と決定です。
おらが村の利益誘導であってはならない。
福祉だ補助金だと、有権者に心地よいばらまきばかりに注力してはならない。

それには、まず我々有権者が目先の損得で投票してはならないと肝に命ずべきだ。

中央のご機嫌を伺わなくては予算が回ってこない。
立候補者は当選しなければただの人。こちらは民衆のご機嫌ばかり伺っている。
現状は、こうなる仕組みなのです。その仕組みとは国家予算の分配方法と選挙制度です。

地方分権の推進と小選挙区制の見直しが必要だと考えます。

最後に為すことの考察

今年も残すところあと僅か・・・
今年、やり残したことはないかと毎年考える。
60歳を過ぎ人生のたそがれ時に一年のやり残しではなく、一生のやり残しはないのか考えるようになってきた。この歳で、何をすべきなのか、何が出来るのかと思うことが多くなってきた。
個人的な絵描きとしてのやり残しは沢山あるが出来なくても大した問題ではない。

敗戦後、我々が求めて成してきたものはこれでよかったのかと振り返る。
美しい日本を失ってきたように感じる。
凛とした日本、凛とした日本民族であって欲しい。

残された時間の中で、蟻のようにちっぽけな自分に、美しい日本を取り戻すためになにをすべきか考えていきたい。

依存体質

 我々は多くの人に支えられて生きている。
生まれたときは母親から授乳してもらい大きくなり、親の保護のもとで教育を受けることができた。
 これらは一義に自立の為に受けてきた恩義なのです。では、どの時点で保護から自立すべきなのか?早い時期から少しづつ親離れの訓練をすることが大切と思う。
 最近では死亡届を出さずに親の年金を受け取り続けた輩もいる。働けるのに生活保護を受け、携帯電話代は払うが給食代は出さない親がいる。老いた親は子供たちが面倒を見るのが当然で、子供の将来を考えずに、いつまでも手元に引き留めておこうとする。
 依存体質が蔓延している。行政は他人の褌で人気取りのためばら撒きをする。電車内のアナウンスは過剰なほどに情報を流す。メーカーはクレーマーからのバリアのため製造者責任なにがしで取説に能書きを書き連ねていく。携帯電話で乗り換え案内を調べ、カーナビで道順を決める。サービス過剰の洪水の中、人は何をするのか、なにを求めているのか。
 戦後、多くの物を得てきたが、大きな大切なものを失った。何もかもが、親から、上司から、会社から、国から、他国から得られると思い込んでいる。空気も水も電気も道路も、平和さえも声を出せば手に入ると思っている。なんて情けない日本になってしまったのか。
 私は戦後生まれだが、貧しさを多少は知っている。いつも腹をすかし、欲しい絵本も買ってもらえず泣いたこともある。だがそれでも、それなりに楽しかったのだが、団塊世代の親は自分の子供にはそうさせたくないと思い与え過ぎてしまったのだろう。それは我々世代の責任である。物の豊かさと、便利さと効率を求めてきた。結果、社会全体が放出する事物、事柄に自由を奪われた。
民衆にある自由は目先の小さな損得の選択に限定された。我欲に支配され、大切な自由を奪われたことをき気付かずに・・・・
 依存体質からの脱却が真の自由の第一歩だと思う。